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追善供養(坐禅会法話より)

  • 執筆者の写真: 合掌
    合掌
  • 1月15日
  • 読了時間: 3分

更新日:1月29日

 人間はいつの世も、よい行いをする人と悪い行いをする人が混在しています。次のような話も時折耳にすることです。「あなたのご先祖はどうも浮かばれていないようだ。だから不幸なことが起こるんですよ。是非とも先祖供養をした方がよい」と供養を勧められ、高額なお布施を取られたと、訴える人があります。

 人の弱みや不安、恐怖心を煽ってつけ込もうとする話は絶えません。とかく人間は自己中心的で、例えば物事がうまく行っている時は、自分に能力があり、あるいは努力の結果であると考えがちです。ところが何事も「山あり谷あり」でして、うまくいっている時は何の不安もありませんが、少しでも不都合なことがありますと、自らを省みることなく、周りのさまざまなものに原因を求めがちです。実はここに心の落とし穴があります。もし、うまく行かない原因を他に求めているところに、先のようなつけ込まれる話がありますと、ついついそうかと思い込んでしまうものです。

 さて、その先祖供養ということですが、一般的には、生きている人がご先祖さまに対して行う供養のことと、思われています。

 どなたにもご先祖はいらっしゃいます。たまに、わが家には先祖はいないんだという人がいますが、それは違います。この世に生を受けた瞬間から、ご先祖さまとの関わりがあるのです。私にも父や母がいます。父方の祖父母、母方の祖父母もいます。記憶にあるのは、おじいちゃん、おばあちゃんまでですが、人によりましては、曾おじいちゃん、曾おばあちゃんをご存じの方もおいででしょう。たどっていけば沢山のご先祖さんがいます。そうした人々があってこそ、今の私があるわけです。当たり前のことですが、私が今あるのはご先祖さまのお陰と感謝し、追善供養をするのが大切なことです。

 ところで、追善供養についてお釈迦様は『妙法蓮華経』(化城喩品)の中で次のようにお示しになっています。

 「願わくば、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆、共に仏道を成ぜんことを」と、つまり「もしできるのなら、私が行うこの善行をあらゆる人々にも振り分け、私も、すべての人々も皆、平等に成仏できますように」ということです。

 では、どうすれば供養になるのでしょうか、或いは功徳になるのでしょか。

 お仏壇の前で手を合わせるのも供養でしょう。そして、お墓まいりをすることも先祖供養になりましょう。また、何かを仏様やお寺にお供えするのも供養に違いありません。いずれもよい行いです。

 しかし、一番大切なのはそうした供養をするときの心、心の在り方が重要なのです。

 仏教でいう本来の供養とは、手をあわせて拝んで頂くときに、亡くなった人たちをはじめ、自分や自分に関係がある人たち、また他のすべての人たちがどうか幸せになり、あらゆる苦しみから逃れられますようにと思う心、そうした心を養うのが仏教の本来の正しい供養であります。

 言い換えますと、他に対する思いやりの心を育てて頂くこと、そうした心を育てるトレーニングをして頂くことが、仏教でいう本来の供養の一番重要なところだと思われます。そうすれば、お釈迦様の言われる「私が行うこの善行を、あらゆる人々にも振り分け、私も、すべての人々も皆、平等に成仏できるよう」になりましょう。 

 つまり、亡くなって人たちにだけでなく、生きている人々すべてのために、養った心、正しい念の心をお供えするのが供養なのであります。

 そうすることによって、「迷いのない悟りの境地」に一歩、一歩、近づくことができるように思えます。

 
 
 

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